富山家庭裁判所 昭和39年(家)690号 審判 1965年10月22日
主文
本件申立を却下する。
理由
(申立人の申立の趣旨およびその実情)
申立人の申立の要旨は、申立人は昭和三三年六月一四日相手方と結婚し、相手方の家業である鮮魚商兼料理店の家業に従事していたが、過労と家業に従事中の過ちのため昭和三六年一二月発病し、相手方並にその両親などから、婚姻前からの病気と罵られ、又離婚を迫られたため、闘病生活にありながら、このことに日夜悩まされたため、精神的にも如何ともしがたく病状が悪化するので同三八年八月三〇日相手方と協議離婚をなすこととなつた。申立人は上記婚姻中通常の家庭の主婦としては勿論それ以外の家業にも従事し、連日深夜まで働き続けて来たもので、その期間は三年六ヵ月に及ぶので勤務手当としても一〇〇万円に相当する財産分与を受けることが当然であるので、これが請求をなすものであるというにある。
(当裁判所の判断)
申立人および相手方各審問の結果並びに当庁調査官の調査報告、証人井沢辰吉の証言を綜合すると次の事実が認められる。
一、申立人は昭和三三年六月一四日相手方と結婚したこと、当時相手方には先妻との間に生れた二児及び両親があつたこと、相手方の父は相当以前から鮮魚商を営み、戦争の始まる前頃から鮮魚商のかたわら料理店並に料理仕出業を兼業し、戦時中は一時料理店並に仕出業のみを中止していたが、戦後再開し、上記結婚当時は鮮魚商、料理店、仕出業を営んでいたこと、相手方は父の鮮魚商を手伝つていたこと、又相手方は先妻と離婚した後世話する人があつて申立人と前記の如く結婚したが、昭和三八年八月三〇日協議離婚をなしたものであることが認められる。
一、申立人は結婚後相手方の二児の日常生活の面倒をみ、又家業についても相手方と共に協力していたこと、相手方の家計の一切は相手方の父において掌握し、申立人と相手方とはただ相手方の父の家業を手伝うだけでその代り生活費の一切を同父において負担し、申立人は相手方の父若くは母から毎月小遣として実家に戻るまで一、〇〇〇円乃至一、五〇〇円を貰つていた外医薬代(申立人は結婚当時から医薬にしたしんでいた)についても勿論婚家先において支払つていた。
一、ところで申立人は昭和三六年九月頃から健康が勝れず同年一一月内科医の診断を受けたが、原因がはつきりせず疲労が激しいためホルモン剤などの注射を受けたが、よくならないため、昭和三七年一月頃相手方のすすめもあつて、実家に戻つて療養に専念することになつたこと。実家に戻つた後富山中央病院、金沢の大学病院に入院して療養したが結局原因も判らず、又快くもならないので退院し、実家で療養していたこと、入院中の費用は相手方の方で一部負担し、その余の分については申立人において負担していたこと。
一、以上のような健康状態であつたため、申立人において相手方との離婚を決意し、昭和三八年五月頃人を仲に立てて婚家先から自己所有の嫁入道具を引取つて来たこと、上記道具を引取る際仲に立つた人が相手方に対し離婚届の押印は道具を引取つてからにすると約束して引取つたものの、その後申立人において、離婚届に押印しないため、相手方から強く催促されたこともあつて結局相手方の母から二万円の手切金を貰つて協議離婚をなすことに同意して離婚届に押印したことが認められる。
一、相手方は父の家業を手伝い生計の一切を父がみていたため、何等の財産とてなく、このことは申立人においても認めるところである。尤も相手方の父において、土地家屋を所有していることは調査官の調査結果並に証人井沢辰吉(相手方の父)の証言によつて認めることができるが、相手方の父において約四〇年以上も前から鮮魚商を営み、その間夫婦協力して蓄財に心掛けて今日に至つたもので、申立人において相手方と結婚した後家業の手伝をなしたとはいうものの財を残すとか、財を拵えるとかにあづかつて力があつたものとは到底認められない。
一、凡そ夫婦の離婚に伴う財産分与の請求は、夫婦協力して財を拵え、離婚に際して一方のみがこれを取り、他方へ何等の潤いを与えないということは、極めて不合理であるというところから出発しているものであつて夫婦互に協力して生計を営んで来たというだけで、その間に分与すべき何等の財産がない以上、分与の請求それ自体が失当と言わなければならない。しかも相手方は現在糖尿病を患い、その上神経痛を併発して療養に専念している現状にある者に対し、財産の分与を請求すること自体相当とは認め難いので、結局申立人の本件財産分与請求を却下することとして主文のとおり審判した次第である。
(家事審判官 神野栄一)